作品名 | 白地の古典柄友禅 |
制作者 | Y.T さん |
作品名 茶紬地袷 | |||||
制作者 K.S さん |
作品名 | 小千谷の長襦袢(麻は暖かいの話) |
制作者 | K.Tさん |
新しいキモノファッション誌もある。ベンチャー企業の社長が、着付けを習ったり、お茶を習ったりしている。ちょっとした、「和」ブームである。
「それが、業界的には厳しい状況が続いているのです」
日本和裁士会が発行する「日本和裁新聞」編集部の宮下政宏さんが、残念そうに言う。
1954年に創設された日本和裁士会の会員は20年前には約6000人を数えたが、現在は約1700人しかいない。減ってしまった理由はつまるところ、儲からないからだ。
和裁のシゴトは、今や半分以上が中国やベトナムへ流れてしまう。ただでさえ少ないパイを海外と取り合わねばならないうえ、加工料の値下げ要求も強くなる。「これではやっていけない」と、廃業する和裁所も多い。次代のプロを養成する和裁学校の閉鎖・縮小も相次ぐこのおシゴトは、本連載のテーマ、「絶滅危惧種」の1つである。
実を言えば、キモノの市場規模は1982年まで拡大していた。キモノを着る人がほとんどいなくても、売上だけは伸びていたのである。
「なぜかと言えば、1枚あたりの単価が高くなっていったから。普段着としてのキモノが売れなくなると、小売がこぞって、婚礼や成人式、七五三などで着る高価な晴れ着を売ることに力を注ぐようになったからです」(宮下さん)
「ケ」(普段着)は消え、「ハレ」(晴れ着)だけが残った。だが、膨張しすぎた「ハレ」は度重なるバブルとともに消え去り、キモノ業界は存亡の危機を迎えている。
経済産業省の「商業統計」と総務省の「家計調査」、それに矢野経済研究所が出している「呉服市場に関する調査結果」などを総合すると、現在のキモノの市場規模は約3500億円程度、と言われている。ピーク時の約5分の1だという。
キモノは本来、リサイクルすることを念頭に作られている。直線裁ちの直線縫い、しかも手縫いにこだわるのは、汚れたらそれをほどいてバラバラにし、「洗い張り」にかけることを想定しているからだ。
汚れた部分は、仕立て直す際に、目立たないところへ縫い変えて使う。古くなったキモノは、染め直すなどして羽織や帯にする。それでも駄目なら半纏に、さらにボロボロになったら、ぞうきんやハタキにして使いきる。
長く使えば、キモノは「合理的」で「エコロジー」な商品だったのだが、経済成長著しいころは、それがまったく「売り」にならなかった。そんなうんちくを語ろうものなら、「貧乏くさい」と言われそうなほど、ヒト・モノ・カネが溢れていたからだ。
だが、景気は人の心も左右する。上野さんらにとっては幸いなことに、ここ数年、メンテナンスをしながら、より長くキモノを着たい、という人が増えてきた。仕立てだけではなく、キモノの生産工程のあらゆる段階で、こうしたお直し需要が急増しているという。
お直しばかりはまとめて海外に持っていく訳にもいかず、国内の業者の出番になる。
危機こそチャンス、である。
「絶滅危ぐ種、を追いかけているんですか? それはおもしろそうですね」とにっこり笑うのは、和裁士の山本秀司さん(42)だ。横浜駅から歩いて7分の場所で、同じ和裁士である妻の直美さんと「山本きもの工房」を経営している。
工房では、数人の女性たちが黙々と針仕事をしていた。さらしで縫い方の基本を練習中の人もいれば、すらすらと長襦袢を縫っている人もいる。みな、和裁を習いにきた生徒さんたちだ、という。
「会員登録している生徒さんは90人います。下は高校生から上は70代まで。なかには男性も4人います。ほとんどが、針と糸を持ったことがない、初心者です」
素人向けの教室を開くきっかけは1999年、趣味で和裁を習いたいと仕事場にやってきた、ある中年女性のこんなひとことだった。
「祖母のように自分でキモノを縫うのが、私の夢でした」
山本さんはそのころ、和裁のシゴトには未来がない、と感じていた。売上は毎年10%ずつ減っていた。全国和裁技術コンクールで内閣総理大臣賞をとるほど技術があっても、その腕をふるうシゴトがない。
「何を読んでも、どんなデータを見ても、見通しは明らかに暗い。将来的に家族を養えるシゴトではなくなるだろう、と感じていました」
副業を始めることも真剣に考えていた。なのに、目の前の女性は、そんな自分のシゴトに夢を感じると言う。最初から教室にしようと思ったわけではなく、ただ、「やってみよう」と思った。そのころ、同じ職場で和裁のシゴトをしていた父親には猛反対されたが、何かひとつでも、心の支え、が欲しかった。
かたわらに生徒を座らせ、針の持ち方から教える。必然的に、自分がどうやって和裁をおぼえたのか、を振り返るようになった。なにが難しくて、どう説明すればわかりやすいか、のコツも、少しずつつかんだ。
そのうちに、「私も教えて欲しい」という人が現れた。それが、1人、2人、と増えていく。最初は自宅で細々と教えていたが、それでは手狭になり、6年半前に現在の場所を借りた。生徒が急に増え始めたのも、その頃からだという。
工房の技術者は、山本さん夫妻とお弟子さん2人の計4人だ。お弟子さんのうち1人は、もともと教室に通っていた生徒さんだという。
取材をしている間にも、予約を入れた生徒さんが時間をおいてやってきていた。決まった教材はなく、自分の縫いたいものを自分のペースで縫う。わからないことがあれば、そのつどスタッフに訊ねる。そのため、一度に教室に入れるのは、6人までだ。
「針仕事に没頭していると、ストレス解消になるんです」
生徒の多くが、そんな感想を口にする。主婦だったり、教師だったり、ITのプログラマーだったりと、職業もいろいろだ。
山本きもの工房には現在、大口の取引先はひとつもない。「加工料を下げろ」と要求されるたびに断っていたら、とうとう注文がゼロになったという。今は教室の収入と個人客からの依頼だけで、ビジネスが成り立っている。
「このシゴトは、なくならないと思いますよ」
山本さんではなく、生徒のひとりにそう言われた。
「やってみると、すごく気持ちいいですから」
時代遅れの製造業かとばかり思っていたら、巡り巡って最先端のサービス業にもなっている。和裁の粘り、おそるべし。